女優・タレント・司会者・声優・エッセイスト・ユニセフ親善大使として幅広く活躍を続けている黒柳徹子さん。
個性あふれるおしゃれとユーモアで、多くの人々を笑顔にしてきました。
今回は黒柳徹子さんの家系図について確認しながら、深堀りをしていきたいと思います!
最後までお付き合いください!
【画像】黒柳徹子の家系図がすごい!
筆者作成
黒柳徹子さんは 1933年(昭和8年)東京都赤坂区乃木坂(現:東京都港区乃木坂)において、父親 黒柳守綱、母親 黒柳朝(旧姓:門山朝)の長女として生を受けました。
父・守綱さんはヴァイオリニストで、NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた音楽家であり、母・朝さんはエッセイストとして知られた人物です。弟にヴァイオリニストの黒柳紀明さん、妹にバレリーナかつエッセイストの黒柳眞理さんがいます。
戦時中は青森県三戸郡南部町に疎開した時期もありました。こうした家庭環境と時代背景の中で育ちました。
黒柳徹子さんの家族環境について確認していきたいと思います!
黒柳徹子の家族構成
父:黒柳守綱
引用元:サンスポ
黒柳守綱(もりつな)さんは、1908年に田口潔矩さんの四男として生まれ、日本を代表するヴァイオリニストとして活躍しました。
幼少期から音楽の才能を示し、後にオーケストラの首席ヴァイオリン奏者を務めるなど、演奏家として高い評価を受けました。守綱さんは音楽界の発展に尽力し、戦前から戦後にかけて多くの舞台で活躍しました。太平洋戦争中には出征を命じられ、中国を経てソ連に抑留される過酷な体験をしました。
シベリアの捕虜収容所では、ソ連側からヴァイオリンを与えられ、日本人抑留者のために演奏を行ったという逸話が残されています。終戦後しばらくしてから帰国を果たし、音楽家として再び活動を続けました。
戦後の日本においては、オーケストラの中核として活躍するだけでなく、ベートーヴェンの「第九交響曲」を年末の定番曲として広めることにも関わったといわれています。さらに、日本音楽コンクールや海外派遣コンクールに「黒柳守綱賞」を寄託するなど、後進の育成にも力を注ぎました。
人柄について、徹子さんは「疑わない人であった」「音楽一筋で誠実な人であった」と語っています。
上の画像は1938年ごろに撮られた、黒柳徹子さんと母・朝さん、父・守綱さんとの3ショットです。
母:黒柳朝
引用元:サンスポ
母・黒柳朝さんは、北海道の空知郡滝川町(当時は空知郡滝川村)生まれの随筆家です。
学業面では、岩見沢高等女学校を卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学の前身校のひとつ)に進学し、声楽科を専攻しました。在学中、音楽の道を志していた父・黒柳守綱さんと出会い、音楽を通じて親交を深め、後に結婚しました。
家庭人として、朝さんは従来は主に家庭を守る立場にありましたが、戦時下には過酷な状況に直面します。1944年には夫・守綱さんが戦地へ赴いたため、一人で幼い子どもたち(徹子ら)を育てなければならなくなりました。
東京大空襲の際には一家は疎開を余儀なくされ、青森に移るなど、生活の拠点を転々としました。田畑を耕したり、農協で働いたり、女性ながらも生計を立てる知恵と行動力が問われる日々を送ったと伝えられています。
また、朝さんは晩年に作家として活動するようになりました。1970歳代後半になってからの自伝的エッセイ 『チョッちゃんが行くわよ』(初版1982年)はベストセラーとなり、1987年には同書を原作とした NHK 連続テレビ小説「チョッちゃん」が制作・放映されました。
それ以後、『トットちゃんと私』、『チョッちゃんだってやるわ』、『バァバよ大志をいだけ』など、多くの著作を残し、随筆家として広く知られるようになりました。
晩年も精力的に活動を続け、在留邦人向けの講演活動やボランティア、エッセイの執筆などを行い、幅広くその思想や経験を伝えていました。2006年8月16日、朝さんは心不全のため、95歳でこの世を去りました。葬儀は近親者のみで行われ、喪主は長男・紀明氏が務めました。
上の画像は1986年11月に朝ドラ『チョッちゃん』のヒロイン発表会見に駆けつけた時のものです。
弟:黒柳紀明
引用元:X黒柳紀明さん、弟さんなの?
— 京大土木芸人は京都を救え😅逃げたらあかん (@odafactory) May 4, 2025
あんまり調べるとネタバレになるから名前だけ見た#チョッちゃん pic.twitter.com/pdQ8Hm0Yxa
黒柳紀明さんは、1940年に東京都に生まれ、ヴァイオリニストとして活躍した音楽家です。
桐朋女子高等学校音楽科を卒業後、桐朋学園芸術短期大学で研鑽を積みました。その後、さらなる音楽の研さんのためにドイツへ留学し、ベルリン芸術大学で学んでいます。幼い頃から父の厳しい指導を受けて育ち、自然と音楽の道を歩むようになりました。
音楽活動としては、1962年に読売日本交響楽団に入団し、1971年からはNHK交響楽団のヴァイオリニストとして長年にわたり活躍しました。特に第2ヴァイオリン奏者としてオーケストラを支え、その確かな技術と豊かな音楽性で聴衆を魅了してきました。
また、オーケストラ活動に加えて、演奏会や音楽イベントなどにも出演し、多彩な音楽活動を展開しています。
黒柳紀明さんは、兄弟姉妹の中で唯一男性として成長し、長兄を亡くした後には家族の期待を担う存在でもありました。家族の結びつきは強く、姉・徹子さんの活動に関わる場面で演奏を披露することもありました。
芸術一家の一員としての存在感とともに、自身の音楽家としての歩みを着実に築き上げてきた人物といえるでしょう。
妹:黒柳眞理
引用元:ATCBB日記
黒柳眞理(くろやなぎ まり)さんは、1944年に生まれ、東京都出身の元バレリーナであり、現在はエッセイスト、美容師、さらにアルゼンチンタンゴの講師としても活躍している人物です。
幼少期から芸術に親しみ、6歳の頃からクラシックバレエを始めます。チャイコフスキー記念東京バレエ学校で学び、舞台活動に取り組みました。しかし、19歳の時に足首を負傷し、その怪我が原因でバレリーナとしての道を断念することになります。
バレエに専念するために通っていた香蘭女学校を中退するほど情熱を注いでいたため、その挫折は大きな転機となりました。その後、母の勧めで美容学校へ進み、美容師の道を歩み始めます。20歳で元プロ野球選手の井石礼司さんと結婚。二人の子どもを授かりましたが、39歳の頃に離婚しました。
以降は自らの力で生活を支えるため、美容師としての仕事に専念しました。1991年には北海道札幌市に移住し、美容室を開業。さらに地域とのつながりを深め、1992年からはラジオパーソナリティやテレビのコメンテーターとしても活動の幅を広げました。
STVラジオ「巻山晃のおはよう北海道」をはじめ、多数のメディアに出演し、その経験を生かして全国各地で講演活動を展開。教育機関や企業、地域団体からの依頼を受け、これまでに600回を超える講演を行っています。
また、エッセイストとしても活動しており、『イノセント・エンジェル』『Wake up ― 心の目を覚まして!』『たんぽぽのように』といった著書を刊行。
人生の転機や心の持ち方をテーマに、前向きに生きるメッセージを多くの人に届けています。さらに近年ではアルゼンチンタンゴにも情熱を注ぎ、音楽と身体表現を通じて豊かな人生観を発信し続けています。
上の画像は2014年に旭川理容美容専門学校にて卒業記念講演を行った時のものです。
伯父:田口修治
引用元:鎌倉市川喜多映画記念館
田口修治さんは、日本の撮影技師、映画監督、そしてプロデューサーとして活躍した人物です。父・守綱さんの兄弟にあたり、徹子さんにとっては伯父にあたります。
若い頃から映画の世界に携わり、カメラマンや撮影技師として経験を積んだ田口修治さんは、のちにドキュメンタリー映画の監督として活動を広げていきました。彼は「シュウ・タグチ(Shu Taguchi)」という名義を用いることもあり、戦後には「シュウ・タグチ・プロダクション」を設立。自らの企画による作品制作にも取り組みました。
代表作には、戦後日本の再建をテーマとした『立ち上がれるか日本』(1947年)、漁業に従事する人々を描いた『漁る人々(Men Who Fish)』(1948年)、武道の魅力を伝える『柔道の妙技』(1950年)などがあり、いずれも記録映画・ドキュメンタリー作品として高く評価されました。
また、ニュース映画やCIEスクリーン・マガジンの制作にも携わり、報道分野にも大きく関わりました。さらに、田口修治は戦中から戦後にかけてジャーナリストや報道カメラマンとしても活動し、日本ニュース映画社のニューヨーク支社長を務めるなど、国際的な映像報道の分野でも存在感を示しました。
アメリカ滞在中には戦時下での体験をもとに記録を残し、それを著作として発表したこともあります。その生涯は51年という短いものでしたが、田口修治は日本における記録映画の発展に大きく寄与し、リアリズムを重視した映像表現の先駆者といわれています。
黒柳徹子の学歴・経歴
黒柳徹子さんの幼少期は第二次世界大戦中は、空襲を避けるため青森県三戸郡南部町に疎開し、自然の中でのびのびと生活しました。その後、女優・声優・司会者として活躍するようになり、東洋音楽学校声楽科(現:東京音楽大学)を卒業されました!
- 小学:尋常小学校→トモエ学園小学校(戦時中は青森県へ疎開)
- 中学:香蘭女学校中等科
- 高校: 香蘭女学校高等科
- 大学: 東洋音楽学校声楽科(現・東京音楽大学)
黒柳徹子さんは学校生活では型にはまらない行動が目立ち、担任の先生からは「落ち着きがない子」とみなされたこともありました。
しかし、トモエ学園に転校してからは個性を尊重する教育方針のもと、自分らしく過ごせるようになり、好奇心や探究心を大切にする子ども時代を送りました。
またその後の経歴は
- NHK専属女優として活動開始(1953年)
- 音楽番組「ザ・ベストテン」司会で国民的存在に(1978年)
- 「ユニセフ親善大使」として国際活動(1984年~)
となり、柔軟な表現力と豊かな感受性の特徴を生かし、舞台やテレビで多方面に才能を発揮する状況になったようですね!

黒柳徹子さんは、どうして母の朝さんとの関係がそんなに深いのかな?

それは、朝さんが徹子さんの個性を何より大切にし、「人と違ってもいいのよ」と常に励ましてくれたからという理由から、徹子さんが“自分らしさを貫く生き方”を自然に身につけるようになったみたいよ!
【画像】黒柳徹子は身長が縮んだ?若さの秘訣や現在の活動は?
黒柳徹子は身長が縮んだ?
引用元:ORICON NEWS
近年、「黒柳徹子さんの身長が以前より低くなったのではないか」という話題を耳にすることがあります。この背景には、テレビ番組やイベントでの共演者との身長差や、かつてより小柄に見えるという視聴者の印象が影響しているようです。
若い頃の身長や体重については、公式に数値が発表されているわけではありませんが、当時の映像や雑誌記事、関係者の証言などを通して、ある程度の推測が可能です。1950年代から1960年代にかけて、黒柳さんはNHKのテレビ草創期に出演し、その後は数多くの民放番組にも登場しました。
その頃の立ち姿や共演者との比較から、若い時期の黒柳さんは身長がおよそ162cm前後、体重は45kgから48kg程度だったと考えられています。
一方で、最近の映像では若い頃より背が低く見える場面があると指摘されており、特に長寿番組『徹子の部屋』の過去映像と現在を比較するケースは話題になりやすいようです。なお、年齢を重ねると身長が少しずつ低くなるのは自然な現象とされています。
加齢によって背骨の椎間板が薄くなることや、姿勢の変化などが主な要因で、60代から70代以降の人によく見られるものです。黒柳さんは1933年生まれで、90歳を超えた今も第一線で活躍されています。そのご年齢を考えれば、数センチほど身長が変化していても不思議ではないといえます。
黒柳徹子の若さの秘訣は?
引用元:OurAge
黒柳徹子さんの若さの秘訣は、心の持ち方や生活習慣に大きな特徴があります。まず「くよくよしない」「嫌なことは一晩寝れば忘れる」といった前向きな思考が大切にされており、常に柔軟で明るい気持ちを保つことが、若々しさにつながっているといえます。
また、新しいことへの好奇心を忘れず、ファッションや芸術、世の中の変化に関心を持ち続ける姿勢も、心を生き生きとさせる源になっています。さらに、美容面では「お化粧はきちんと落とす」という基本的なスキンケアを守り、肌を大切に扱う習慣を続けています。
そして、女優・司会者としての活動に加え、ユニセフ親善大使として世界を巡るなど、多彩な仕事や社会活動に取り組み続けていることも大きな要素です。自分らしい装いを大切にし、人との出会いに対して誠実に向き合う姿勢も、周囲に明るく若々しい印象を与えています。
このように、黒柳さんは「心の持ち方」「好奇心」「基本的な習慣」「情熱を持ち続けること」を大切にすることで、90歳を超えてなお若々しい姿を保ち続けているのです。
黒柳徹子の現在の活動は?
引用元:スポニチ
黒柳徹子さんは90歳を超えた今も、精力的に多方面で活躍を続けています。テレビでは1976年から司会を務める長寿番組『徹子の部屋』を現在も担当し、50年目を迎えた今も変わらぬ存在感を放っています。さらに、自身のYouTubeチャンネル「徹子の気まぐれTV」では、日常や思い出を語る姿を公開し、新しい形で多くの人々とつながっています。
社会活動においては、1984年から務めるユニセフ親善大使として、世界の子どもたちを支援する取り組みを続けています。
途上国の現地視察や募金活動への協力などを通じて、国際的に重要な役割を果たしてきました。近年はガザへの寄付が話題となるなど、積極的に支援の手を差し伸べています。
また、執筆活動ではベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の続編を発表し、自身の体験を次世代に伝える役割も担っています。加えて、彼女の衣装やライフスタイルを紹介する展覧会「GLAM―黒柳徹子、時代を超えるスタイル―」も開催され、文化的な影響力を再確認する機会となりました。
そのほか、ちひろ美術館の館長や東京フィルハーモニー交響楽団の副理事長、日本パンダ保護協会の名誉会長といった役職も務め、芸術・文化・動物保護の分野でも貢献を続けています。黒柳さんの活動は、芸能界にとどまらず、社会・文化の幅広い領域に広がっており、そのエネルギーは衰えることを知りません。
黒柳徹子のプロフィール・SNS
引用元:スポニチ
プロフィール
- 名前:黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ)
- 生年月日:1933年8月9日
- 年齢:92歳(2025年10月現在)
- 出身地:東京都
- 血液型:A型
- 趣味:読書、音楽鑑賞、舞台鑑賞、チャリティ活動
- 特技:英語、声楽、トーク力
- 所属事務所:株式会社ユニコン
SNS

黒柳徹子さんのトーク力を身に付けたきっかけって何なのかな?

幼いころから「人を観察する」のが大好きだったみたいだよ!また、ユニセフ親善大使として世界各地を訪れ、多様な人と出会ったことでトーク力を深めていったみたい。