【画像】三國連太郎の家系図がすごい!歴代の妻との馴れ初めは?死因はなに?

生前、俳優や映画監督として活躍してきた三國連太郎さん。

激動の時代を駆け抜けながらも、自由と信念を貫き、“生涯俳優”の人生でした。

今回は三國連太郎さんの家系図について確認しながら、深堀りをしていきたいと思います!

最後までお付き合いください!

目次

【画像】三國連太郎の家系図がすごい!

筆者作成

三國連太郎さんは、1923年1月17日に群馬県太田市で継父・佐藤正さん、母親・小泉はんさんの長男として生を受けました。

三國連太郎さんの母・はんさんは、静岡県伊豆の漁村に生まれましたが、船の沈没によって一家が離散し、広島県呉市の海軍家庭で女中奉公をしていました。

17歳で身籠もり追い出される形で帰郷中、静岡県沼津港で父親と出会い、1922年に群馬県太田市で結婚。翌年に三國連太郎さんが誕生しています。

複雑な生い立ちであることが分かりますが、継父・正さんも厳しい教育方針だったようです。

三國連太郎さんの家庭環境について確認していきたいと思います!

三國連太郎の<家族構成・家系図>

継父:佐藤正

三國連太郎さんの継父・佐藤正さんは、電気工事の職人でした。普段は、家族思いで優しい人だったそうですが、三國連太郎さん曰く「とにかく手が早い親父」で、やんちゃだった少年時代はよく殴られていたそうです。

しかし、ただ厳しいだけではなく、とても真っ直ぐな人で、「曲がったことが大嫌い」という信念を持って生きていたそうです。三國連太郎さんが一番影響を受けたのも、そんな父・正さんの生き様でした。

中でもすごいのが、西伊豆・土肥で労働争議があった際、官憲に追われていた労働者2人をかくまって、そのうち血まみれになった人を背負って山道を越えて逃がしたたそうです。映画みたいなエピソードですね!

そして、1943年に三國連太郎さんが軍隊に招集されたとき、周囲が「万歳!万歳!」と送り出す中、父・正さんは三國連太郎さんに「必ず生きて帰ってこい。無駄死にするな」と言いました。この言葉が、三國連太郎さんの心に深く刻まれたそうです。

優しくて、厳しくて、正義感の強い父・正さんの姿が、三國連太郎という俳優の土台になっているのかもしれませんね。

母:小泉はん

三國連太郎さんの母・小泉はんさんは、静岡県伊豆半島の漁村・小浦で網元の娘として生まれました。

しかし、船の沈没事故によって家族が離散してしまい、母・はんさんは、広島・呉の海軍軍人の家に女中奉公に出されました。

そして17歳のときに三國さんを身ごもり、奉公先を追い出されて帰郷する途中、静岡・沼津港で後の夫(三國さんの父)と運命的に出会い、群馬県太田市で結婚。翌年、三國連太郎さんが誕生しました。

父・正さんは厳しく手の早いタイプだっので、やんちゃだった三國さんはよく叱られていました。そんなとき、縁の下に隠れていた三國連太郎さんに、こっそりご飯や毛布を運んできてくれたのが母・はんさんでした。

時には息子・三國連太郎さんをかばって、自分が殴られることもあったそうです。それでも母親は一言も文句を言わず、ただ黙って耐えていたといいます。まさに「昭和の母」といった強くて我慢強い人だったことが分かります。

ただ、母・はんさんも「耐えるだけ」ではなく、おしゃれが好きで、月末になるとぜいたく品の支払いを父親に押し付けて夫婦ゲンカになることもあったようです。

三國連太郎さんが軍に招集されたとき、母からの手紙には「親不孝を重ねたけど、これで天子様にご奉公できる。名誉なことだ」と書かれていました。

そして出征前、最後に会いに来た母は「きついかもしれんが、一家が生きていくためだ。戦争に行ってもらわなきゃいかん」と涙ながらに言ったそうです。

さらには、家出していた三國連太郎さんが送った手紙を母・はんさんが憲兵隊に提出していたことも後から判明し、家族としての複雑な思いがあったことが伺えます。

息子を思いながらも、時代の波や家族の生活のために鬼にもなった母・はんさんは、三國連太郎さんの心に、深く残り続けた存在だったことは間違いありません。

長男:佐藤浩市

引用元:ORICON NEWS日テレNEWS

三國連太郎さんの息子・佐藤浩市さんは、1960年12月10日に三國連太郎さんと、3番目の妻の間に生まれました。2025年7月現在、64歳です。

父・三國連太郎さんとは、いわゆる「仲良し親子」とはちょっと違う、複雑な関係だったようです。

佐藤浩市さんが小学校高学年の時、父・三國連太郎さんは家を出てしまい、両親は離婚。以降、佐藤浩市さんは母親に育てられました。「子ども時代は、たまにしか3人で一緒に食卓を囲めないことがすごく辛かった」と語っており、そのせいか、父・三國連太郎さんとの間には長く確執があったと言われています。

そんな佐藤浩市さんですが、幼少期に父・三國連太郎さんに連れられて訪れた映画の撮影所で、現場の熱気や父の姿を見て「役者ってかっこいい」と感じたのが、俳優を目指すきっかけになったそうです。

その後、多摩芸術学園の映画学科を中退したタイミングで、父・三國連太郎さんの知人からNHKドラマのオーディションの話をもらい、俳優デビューすることになります。

デビュー当初は思うように演じられず、現場では怒鳴られたり、何度もやり直しをさせられ、「佐藤浩市は生意気だ」とスタッフの間で噂されるようになってしまったそうです。

そんな中、30代のとき、父・三國連太郎さんから「生かされてあればこそ」と書かれた一筆をもらい、それを機に現場でのふるまいを見直すようになったことで、俳優としての意識が大きく変わったといいます。

1986年の映画『人間の約束』では親子で初共演を果たしますが、当時はまだわだかまりが残っていたらしく、2人の絡みはあまりなかったそうです。

1996年の映画『美味しんぼ』でも親子対決が話題になりましたが、製作会見では「佐藤くん」「三國さん」と呼び合い、お互いに真逆の持論をぶつけ合うなど、会場にはピリッとした空気が流れ、周りをヒヤヒヤさせました。

しかし、2008年にANAのCMで親子共演した際には、柔らかな笑顔を見せるなど、自然な形で関係が変化していきました。

2009年に佐藤浩市さんが出演した『徹子の部屋』では、「父は努力の人」と語るなど、尊敬の念もうかがえる発言もありました。

確執を抱えながらも、役者として、そして親子として距離を縮めていった二人は、まさに「演技を超えたドラマ」のような親子関係だったのかもしれませんね。

孫:佐藤寛一郎

引用元:シネマトゥデイNEWSポストセブン

三國連太郎さんの孫・佐藤寛一郎さんは、東京都世田谷区にて1996年8月16日、父・佐藤浩市さんの長男として生まれました。2025年7月現在、28歳です。寛一郎さんは、現在、祖父・父と同じ俳優としての道を歩んでいます。

幼い頃、父・佐藤浩市さんに連れられ映画の撮影現場に足を運んでいたこともあり、映画は好きでしたが、俳優になりたいという思いは当初なかったそうです。

デビューのきっかけは、三國連太郎さんの葬儀の際に映画関係者が16歳の寛一郎さんを見てスカウトしたことだと言われています。その雰囲気に魅了されたのが理由だったそうです。

寛一郎さん自身も「俳優にはならない」と話していたものの、それ以外の道を考えたこともなかったといい、2017年3月に映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』で俳優デビューを果たしました。演技が高く評価され、第27回日本映画批評家大賞の新人男優賞を受賞しました。

さらに2018年には『菊とギロチン』で、第92回キネマ旬報ベスト・テン新人男優賞、第33回高崎映画祭 最優秀新進俳優賞、第28回日本映画批評家大賞 助演男優賞を受賞するなど、実力が広く認められる存在となっています。

2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では公暁役で出演し、大河初出演を果たしました。

三國連太郎さんと佐藤浩市さんの間には確執があったとされていますが、孫・寛一郎さんの誕生がきっかけで雪解けの兆しが見えたとも言われています。

三國連太郎さんは信頼する関係者に孫の写真を見せ、「ジジバカなんだよ」と語るなど、溺愛する一面を見せていたそうです。また、孫に自分のことを「レンちゃん」と呼ばせ、運動会や行事にも積極的に参加していました。

寛一郎さんの小学校の謝恩会では、祖父・三國連太郎さんと父・佐藤浩市さんの朗読劇が披露され、2人ともとても嬉しそうだったとのことです。

三國連太郎さんは2013年に逝去されているため、俳優としての孫の姿を見ることは叶いませんでした。父・佐藤浩市さんも「息子が俳優になる姿を見せたかった」と語っています。

祖父に三國連太郎さん、父に佐藤浩市さんを持つ俳優・寛一郎さんの今後の活躍に、ますます期待が高まります!

妻:友子

引用元:スポニチ

三國連太郎さんは、1976年に、4度目の結婚を一般人女性の友子さんとされています。詳細なことは不明ですが、三國連太郎さんは笑顔の絶えない友子さんの影響もあり、性格が少しずつ変わっていったようです。

晩年には、「妻のために長生きしなければ」と語っており、友子さんをとても大切にされていたことが分かりますね。

友子さんは、3番目の妻との間にできた息子・佐藤浩市さんや孫・寛一郎さんとも親交がありましたが、三國連太郎さんの死後、少しずつ関係性が変わって行ったようです。

三國連太郎さんの遺言には、「戒名はいらない、三國連太郎のままでいく」「遺骨は散骨してほしい」ということが書かれていた様です。

本人の希望通り、三國連太郎のまま戒名はなしで進みましたが、佐藤浩市さんが遺骨だけは納骨したいと希望し、友子さんも佐藤浩市さんの意向を尊重する形になりました。

友子さんは、三國連太郎さんのご両親が眠る沼津のお墓に納骨されるものと思っていました。しかし、佐藤浩市さんは「沼津は遠いから」として、東京に新たなお墓を建てることを希望したようです。

ところが、佐藤さんが東京にお墓を建てた場合、三國さんの3番目の妻もそこに入る可能性があり、その場合、友子さんの入る場所がなくなってしまう恐れがあるのです。三國連太郎さんと30年間一緒に生き、最期を看取った友子さんの心情は複雑なものだと考えられます。

このように、三國連太郎さんの死後、妻・友子さんは、息子・佐藤浩市さん家族と疎遠になって行っているという情報もありました。

三國連太郎の学歴・経歴

三國連太郎さんの幼少期は大正末期から昭和初期という激動の時代でした。

三國連太郎さんは群馬県太田市で生まれますが、父・正さんの仕事の関係で生後7か月で静岡県土肥町へ引っ越しました。

  • 小学:不明
  • 中学:旧制豆陽中学校 中退(現在の静岡県立下田高等学校)
  • 高校:進学せず
  • 大学:進学せず

三國連太郎さんが進学した旧制豆陽中学校は、当時進学校でしたが、かなり厳しい環境だったようです。

三國連太郎さんは水泳部にも所属していましたが、日々の厳しい学校生活に耐え切れず、2年生で中退してしまいます。中退したことに父・正さんは激昂し、三國連太郎さんに暴力を振るうようになったそうです。

三國連太郎さんは、父の暴力から逃れるため下田港から密航を企て青島へ渡りました。その後、釜山で弁当売りや飲食店のホールなどで働いて生活をしていました。

帰国後は皿洗い、ペンキ塗り、旋盤工などさまざまな職に就いていました。1943年12月、三國連太郎さんが20歳の時に徴兵検査の通知が来たため、地元の伊豆に戻ります。

甲種合格後、母からの手紙で「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ」と書かれていたそうですが、三國連太郎さんは、「戦争に行きたくない。戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。なんとか逃げよう」と逃亡を図ります。

三國連太郎さんは当時のことを振り返り、「暴力や人の勇気が生理的に嫌いでした」「子供のころ、けんかしてよく殴られたが、仕返ししようとは思わない。競争するのもいや。」と語っていました。

外地にいけばなんとかなると思った三國連太郎さんは九州の港に向かいましたが、途中で実家に出した手紙があだとなり、佐賀県唐津で特高らしき人に捕まってしまいます。

その後、静岡の34連隊に配属され、中国に送られました。戦地へ向かう途中、身体を壊して熱病にかかり、10日間意識不明になりました。

そして、同じ部隊の隊員から死んだものと思われ、工場の隅でむしろをかぶせられて放置されていましたが、焼き場に運ばれ、いざ焼く番になってむしろをはがしたら目が覚めたそうです。その後は、漢口の兵器勤務課に配属され、この部隊で終戦を迎えました。

三國連太郎さんは、「暴力や人の勇気が生理的に嫌いでした」という言葉の通り、戦争中は実弾を一発も打つことはなかったそうです。

戦後は、宮崎県で1人目の妻となる豊美さんの実家に身を寄せ、宮崎交通に入社、バスの整備士として2年勤務しましたが、1948年に豊美さんと離婚し、鳥取県倉吉市へ行くことになりました。

鳥取県倉吉で農業会に勤めながら第二の人生を歩んでいた三國連太郎さんに、思いがけない転機が訪れました。地元で写真館を営んでいた人物が、三國連太郎さんに強い魅力を感じ、こっそりと彼の写真を映画会社・松竹に送っていたのです

そして1950年12月、27歳だった三國連太郎さんが東銀座を歩いていたところを、松竹のプロデューサー・小出孝さんにスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入所します。

これが、後に昭和を代表する名優となる三國連太郎さんの俳優人生のスタートでした。

またその後の経歴は

  • 映画『善魔』で主演デビュー(1951年)
  • 映画『稲妻草子』(1951年)
  • 『異母兄弟』で毎日映画コンクール男優主演賞を受賞(1957年)
  • 映画『飢餓海峡』などで重厚な演技が高く評価される(1965年)
  • テレビドラマ『釣りバカ日誌』でスーさん役を演じ国民的人気を得る(1988年〜2009年)
  • 映画『復讐するは我にあり』など、鬼気迫る演技でカルト的評価を得る(1979年)
  • 映画『人間の約束』で息子・佐藤浩市と共演(1986年)
  • 自ら企画・製作・主演を務めた映画『利休』で芸術選奨文部大臣賞を受賞(1989年)
  • 日本アカデミー賞最優秀主演男優賞(『釣りバカ日誌』『利休』などで)を複数回受賞(1980年代〜1990年代)
  • 映画『わが母の記』で主人公の父役を演じる(2012年) 遺作となる

となり、昭和を代表する名優となりました。

役作りには、人一倍力を入れていた三國連太郎さんは、1957年の映画『異母兄弟』では、老人役の役作りのため、麻酔抜きで上下の歯を10本抜いたそうです。

一方で、自由奔放なところもあったようです。

撮影所では「連ちゃん」の愛称で親しまれていた三國連太郎さんは、1951年の映画『稲妻草子』で松竹から本格的にスターとして売り出されますが、大食漢で懐が寂しく、女優の木暮実千代さんに「何か食べさせてよ」と甘えるなど、どこか憎めない存在でもありました。

しかし、試写で演技を笑われたことをきっかけに奮起し、京都の時代劇関係者のもとを訪ねて演技を学びます。

その後、松竹を飛び出し、自身が信頼する稲垣浩監督の下、東宝映画に勝手に参加したことで映画業界に激震を与え、結果として新人俳優の移籍に関する規制が生まれるきっかけにもなりました。

自由奔放ながらも「自分は商品じゃない」と信念を貫いた三國さんについて、稲垣浩監督は「サラリーマンではない役者」と評し、「クセのある俳優といえば三國連太郎にとどめを刺す」と語っています。

自らに嘘を付かないことを貫いたその生き様こそが、三國連太郎という俳優の真骨頂だったのかもしれませんね。

ギモンくん

大正、昭和、平成の時代を生きた三國連太郎さんの人生は、考えられないほど壮絶だったんだね!

カイケツさん

そうだね!三國連太郎さんは、戦争を体験した身として生前は平和活動にも尽力していたみたいだよ。

【画像】三國連太郎の歴代の妻との馴れ初めは?死因はなに?

三國連太郎の歴代の妻との馴れ初めは?

引用元:日刊スポーツ

三國連太郎さんのの最初の妻は、戦時中の中国で出会った同じ佐藤姓の豊美さんという女性でした。

三國連太郎さんは太平洋戦争中に中国で終戦を迎え、収容所に入れられますが、妻帯者は早く帰国できるという内規を知ります。そして、同じ収容所にいた宮崎出身の家族に相談を持ち掛け、家族と共に収容されていた娘の豊美さんと偽装結婚をし、1946年6月に帰国を果たしました。

その後、豊美さんと宮崎で生活し、1947年12月には娘・深幸さんが誕生しますが、三國連太郎さんはその翌年に家を出てしまいます。その後、娘・深幸さんは2歳で亡くなり、詳細な情報はほとんど残されていません。豊美さんは、生涯にわたり三國さんに文句を言うことはなかったと言われています。

二度目の結婚相手は、1948~1949年頃、鳥取県倉吉市に身を寄せているときに出会った、資産家の娘・林政枝さんです。林政枝さんの家族からは、どこの馬の骨とも知れない相手との結婚を大反対されました。

その後、三國連太郎さんは、上京し商売に失敗した後、映画デビューを果たします。しかし、多忙な日々から家族を放置することとなってしまい、デビュー翌年には妻・政枝さんと離婚することになりました。

三度目の結婚相手は、俳優・佐藤浩市さんの母になる女性で、神楽坂の一流芸者である敏子さんという方でした。映画『戦国無頼』の撮影中に出会い、意気投合し、1957年に結婚しました。しかし、三國連太郎さんは再び家を出て、別の女性の元へ去ってしまっています。

その後も、女性関係の報道は多くあった三國連太郎さんですが、最期の妻となる友子さんのことは、とても大切にしていたようです。

自身の糖尿病で入院した際も友子さんは、献身的に看病をしました。また、家族に結婚を反対された時は、家を飛び出し三國連太郎さんの所へ来たそうです。

友子さんとは、1976年に結婚をし、2013年に三國連太郎さんが逝去されるまで二人三脚で歩んできました。

三國連太郎の死因はなに?

引用元:スポニチ

三國連太郎さんの死因は「急性呼吸心不全」でした。2013年4月14日、東京都稲城市の療養型病院で逝去され、享年90歳でした。

背骨を痛めたことをきっかけに、亡くなる半年ほど前から療養生活が始まりました一時は寝たきりになったものの、リハビリで回復し、歩けるようになるまで回復していたそうです。

生前は糖尿病で入院したこともありましたが、癌などの大きな病気ではなく、亡くなる直前まで普通に食事もできており、最期は老衰に近い穏やかなものだったそうです。

亡くなる数日前には少し嘔吐があったものの、前日までは気力もあり、新しい映画企画に目を通すなど「生涯現役」を貫いていたとのこと。遺作は2012年の映画『わが母の記』で、まさに最後まで役者としての人生を全うした姿が印象的ですね。

三國連太郎のプロフィール・SNS

引用元:映画.com

プロフィール

  • 名前:三國 連太郎(みくに れんたろう)
  • 本名: 佐藤 政雄(さとう まさお)
  • 生年月日:1923年1月20日
  • 没年月日:2013年4月14日(90歳没)
  • 出身地:静岡県賀茂郡松崎町
  • 血液型:AB型
  • 趣味:音楽鑑賞、書、絵画、散歩
  • 特技:記載なし

受賞歴

  • ブルーリボン賞
    • 1951年:新人賞『善魔』
    • 1960年:主演男優賞『大いなる旅路』
    • 1979年:助演男優賞『復讐するは我にあり』
    • 1989年:主演男優賞『利休』
    • 2013年:特別賞
  • 毎日映画コンクール
    • 1961年:男優助演賞『はだかっ子』『飼育』
    • 1965年:男優主演賞『飢餓海峡』『にっぽん泥棒物語』
    • 1974年:男優主演賞『襤褸の旗』
    • 1989年:男優主演賞『利休』『釣りバカ日誌』
  • キネマ旬報賞
    • 1965年:男優賞『にっぽん泥棒物語』
    • 1979年:助演男優賞『復讐するは我にあり』
    • 1989年:主演男優賞『利休』
    • 1991年:主演男優賞『息子』
  • 報知映画賞
    • 1979年:助演男優賞『復讐するは我にあり』
    • 1989年:主演男優賞『利休』『釣りバカ日誌』
  • 1984年:紫綬褒章
  • 1987年:カンヌ国際映画祭 審査員賞『親鸞 白い道』
  • 1989年:紀伊国屋演劇賞個人賞『ドレッサー』
  • 日本アカデミー賞
    • 1990年:最優秀主演男優賞『利休』『釣りバカ日誌』
    • 1992年:最優秀主演男優賞『息子』
    • 1996年:最優秀主演男優賞『三たびの海峡』
    • 2013年:会長特別賞
  • 1991年:日刊スポーツ映画大賞主演男優賞『息子』
  • 日本映画批評家大賞
    • 1991年:男優賞『息子』
    • 2003年:ダイヤモンド大賞
  • 1965年:ホワイトブロンズ賞 主演男優賞『飢餓海峡』
  • 1992年:モンテカルロ・テレビ祭最優秀男優賞『冬の旅』
  • 1993年:勲四等旭日小綬章
  • 2007年:毎日芸術賞特別賞 『釣りバカ日誌』『北辰斜にさすところ』の演技で
  • 2010年:山路ふみ子映画賞山路ふみ子文化財団特別賞
ギモンくん

三國連太郎さんと言えば、やっぱり釣りバカ日誌のスーさんとしての姿が印象的だよね。

カイケツさん

そうだね!浜ちゃん役の浜田敏行さんとの掛け合いがとても面白いよね!でも、アドリブが多すぎる浜田敏行さんに三國連太郎さんが注意をしたこともあったんだって!

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