【画像】田村正和の家系図がすごい!妻はどんな人?死因は何だった?

田村正和さんと聞いて、真っ先にドラマ『古畑任三郎』を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。1994年に放送が始まり、知的で皮肉屋な警部補役・古畑任三郎を見事に演じ、その存在感で多くの視聴者を惹きつけました。

また、連続ドラマとして3シーズン続いたほか、数々のスペシャル、スピンオフなど12年にわたって愛され続けた国民的シリーズとして、今なお語り継がれています。

今回はそんな田村正和さんの華麗なキャリアはもちろん、“名優の由緒ある家系”にも注目し、そのルーツを深掘りしていきます。ぜひ最後までお楽しみください。

目次

【画像】田村正和の家系図がすごい!

筆者作成

俳優・田村正和さんは、1943年に京都府京都市で生まれました。父は昭和を代表する名優・阪東妻三郎さん、兄には俳優の田村高廣さん、弟には田村亮さんと、まさに芸能一家に育ちました。

俳優の道に進むきっかけとなったのは、兄・田村高廣さんが主演を務めた映画『旗本愚連隊』の撮影現場を訪れたことをきっかけにスカウトされ、1961年には松竹と専属契約を結び、俳優としてのキャリアをスタートします。その後、1966年にフリーとなり、テレビ・映画・舞台と、活躍の場を広げていきました。

また、TBSドラマ『パパはニュースキャスター』での軽妙な父親役をはじめ、『古畑任三郎』での鋭くも淡々とした名推理、そして『眠狂四郎』シリーズでは哀愁をまとった剣豪役を演じるなど、田村正和さんは多彩な役柄を自在に演じ分け、その演技力は今なお人々の記憶に深く残っています。

今回は、そんな田村正和さんの華麗なるキャリアとともに、芸能界の名門ともいえるその家族のルーツにもたどっていきます。

田村正和の<家族構成・家系図>

父:阪東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう)

引用元:ウィキペディア

歌舞伎・映画俳優・阪東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう)さんは1901年12月14日東京都生まれ、1953年7月7日に51歳の若さで逝去されました。田村正和さんのにあたります。

阪東妻三郎さんは、“剣戟王バンツマ”の愛称で親しまれた、昭和初期を代表する名俳優です。その名が今なお語り継がれているのは、圧倒的な存在感と卓越した演技力によるものでしょう。サイレント映画の時代から鍛え上げたしなやかな動きと豊かな表情は、言葉に頼らずとも観客の心を惹きつけ、演技にリアリティと深みをもたらしました。

また、阪東妻三郎さんは24歳の若さで『阪東妻三郎プロ』を設立し、独立プロダクションの先駆者として映画界に大きな足跡を残しました。仕事に一所懸命でありながら、豪快な遊びぶりでも知られ、その生き様はまさに映画の主人公そのもの。俳優・嵐寛寿郎(あらし かんじゅうろう 愛称:アラカン)も「時代劇の王者は何とゆうても阪東妻三郎、女遊びもこの人にはとても及びまへん、散財のケタがちがう」と語っています。

ただ、そんな華やかな表舞台とは裏腹に、阪東妻三郎さんは私生活を一切語らず、家庭でもあまり家族と交わることのない父親だったといいます。

そんな父の背中を見て育った田村正和さんが、私生活を語らず、作品にすべてを注ぐ姿勢を貫いたのは、父・阪東妻三郎さんの生き方から教えを受けていたからかもしれません。

長男:田村 高廣(たむら たかひろ)

引用元:NHKアーカイブス

俳優・田村 高廣さん(たむら たかひろ)は1928年8月31日生まれ、2006年5月16日に77歳で逝去されました。田村正和さんの兄にあたり、長男になります。

田村高廣(たむら たかひろ)さんは、田村正和さんの兄としても知られる、知性と教養を兼ね備えた実力派俳優です。京都府京都市に生まれ、同志社大学経済学部を卒業後は、東京都内の商社に勤務し、サラリーマンとしての道を歩んでいました。

しかし、1953年7月に父・阪東妻三郎さんが急逝。これを機に、木下惠介監督らの強い勧めを受けて、父が所属していた松竹に入社することになります。そして同年、映画『女の園』で俳優デビューを果たし、新たな人生の一歩を踏み出しました。

1971年放送の大河ドラマ『春の坂道』では、沢庵和尚役で出演し、弟の田村正和さんとの共演も実現。その後、1984年放送のフジテレビ系時代劇ドラマ『乾いて候』では、田村正和さん、四男の田村亮さんとともに出演し、田村三兄弟が揃ってテレビに登場するという貴重な機会となりました。

派手さを求めず、常に役柄に真摯に向き合いながらも、揺るぎない存在感を放った田村高廣さん。その誠実な姿勢と深みのある演技は、映画・テレビ界において欠かせない存在として、今なお多くの人の記憶に残っているのではないのでしょうか。

次男:田村 俊磨(たむら としま)

引用元:毎日新聞

実業家・田村 俊磨さん(たむら としま)は1938年6月12日生まれ田村正和さんの兄にあたり次男になります。

田村俊磨さん(たむら としま)は、兄弟が歩んだ俳優の道とは異なり、会社員としての人生を選んでいます。1962年に慶應義塾大学経済学部を卒業後、東京通商に入社。俳優業にはまったく関心がなかったといいます。

それでも、家族との“付き合い”として映画やテレビに出演した経験はあります。1960年の木下恵介監督による映画『笛吹川』では、兄・田村高廣さんが演じた役の少年時代を「田村登志麿」名義で演じました。

また、1965年にはNHKドラマ『破れ太鼓』で、田村高廣さん・田村正和さん・田村亮さんとともに、四兄弟そろって出演するという貴重な共演も果たしています。

さらに、田村高廣さんと田村正和さんが松竹を退社した後には、約3年間にわたって2人のマネージャーを務め、裏方として俳優人生を支え続けました。その後は貿易会社の社長としてビジネスの世界で活躍し、2021年時点ではすでに社長職を退き、穏やかな生活を送っているとされています。

表舞台に立つ機会は限られていましたが、田村俊磨さんは田村兄弟の歩みを陰から支えた存在として、誠実で温かい人柄が多くの関係者に今も深い印象を残しています。

四男:田村 亮(たむら りょう)

引用元:俳優、田村亮です。

俳優・田村 亮さん(たむら りょう)は1946年5月24日生まれ田村正和さんの弟にあたり四男になります。

田村亮さん(たむら りょう)は、1946年に京都市右京区太秦で生まれました。男四兄弟の末っ子であり、唯一の戦後生まれです。

成城学園中学・高校を経て、成城大学経済学部を卒業。もともとは英語が好きで、貿易関係の仕事に就き世界を飛び回ることを夢見ていたため、俳優という道は考えていなかったといいます。

そんな、田村亮さんの運命を変えたのは、名匠・稲垣浩監督からの一本のオファーでした。「101本記念の映画を撮るので出演しないか」と頼まれた際、断れない相手だったため「やらせてもらいます」と出演を決意。1966年、映画『暴れ豪右衛門』で俳優デビューを果たすことになります。

その後、俳優としてのキャリアを積むなかで、兄の田村正和さんとの共演も語り継がれています。1984年、フジテレビ系時代劇『乾いて候』では、兄の田村高廣さん、田村正和さんと三兄弟そろっての共演が実現しました。

田村亮さんは「3人で顔を合わせてにらみ合うシーンなんかがあって、照れくさくてしょうがなかったですよ(笑)!」と振り返っています。そんな中でも、「我慢してやれよ!」と兄たちに励まされながら懸命に演じたといいます。

また、1990年にはフジテレビ系ドラマ『勝海舟』で、主演を務めていた田村正和さんが撮影途中に体調不良となり、田村亮さんが代役として主演を担当。見舞いに訪れた際には、「現代劇のつもりでやったほうがいいよ」と田村正和さんからアドバイスを受けたというエピソードがあり、兄弟の深い信頼と絆が感じられる一面があったといいます。

その後も俳優としてのキャリアを着実に築き上げ、1970年には主演映画『無常』がスイス・ロカルノ国際映画祭でグランプリを受賞。代表作にはドラマ『あんたがたどこさ』『暴れん坊将軍VIII』『狩矢父娘シリーズ』などがあり、穏やかな語り口と誠実な佇まいで、多くの視聴者に親しまれてきました。

現在も俳優として活動を続けながら、息子の田村幸士さんへと芸を受け継ぎ、田村家の品格ある奥深い伝統を次の世代へとつなぐ存在として、その背中で語り続けています。

異母弟:水上 保広(みずかみ やすひろ)

引用元:TMDB

俳優・水上 保広さん(みずかみ やすひろ)は1947年10月31日生まれ父は阪東妻三郎さんで、母親は異なるため、田村正和さんの異母弟という関係になります。

水上保広さんは、俳優・声優・ナレーターとして関西を拠点に幅広く活躍する実力派俳優です。大阪府出身で、父は昭和の大スター・阪東妻三郎さん。母親は異なりますが、田村正和さんとは異母兄弟にあたります。俳優の道を歩んだ華麗なる一族として生を受けました。

芸能界入りのきっかけは、阪東妻三郎さんの番頭を務めていた人の勧めでした。1963年、毎日放送の『戦国大統領』『昆ちゃんの丹下左膳』で俳優デビュー。その後もテレビドラマ『魔像・十七の首』『勝海舟』では、長男・田村高廣さん、田村正和さん、四男・田村亮さんとともに、田村三兄弟と共演を果たしたことでも話題を集めました。

中でも代表作として広く知られているのが、時代劇『水戸黄門』『暴れん坊将軍』です。特に『水戸黄門』では、第4部から第42部にかけて、実に計53回もの出演を重ね、多彩な役どころで視聴者に強い印象を残しました。丁寧に演じ分けるその演技力から、「名バイプレイヤー」として時代劇ファンから高い評価を受けています。

近年はドラマや映画への出演は確認されていないものの、ご本人や所属事務所から公式な発表がないことを踏まえると、体力や健康面を考慮し、活動のペースを緩やかにしている可能性があると考えられます。

与えられた役に真摯に向き合い、地道に演じ続けてきた水上保広さん。その誠実な姿勢と柔軟な表現力で、長年にわたり安定した存在感を示してきた彼は、まさに“職人肌”の名優と呼ぶにふさわしい人物でと言えるのではないのでしょうか。

田村正和 学歴・経歴

幼少期の田村正和さんが暮らしていた京都の実家は、田んぼに囲まれたのどかな田舎にあり、敷地面積は数千坪という広大なものでした。庭には4人兄弟が思い切り遊べるよう約300坪の運動場が設けられ、2面のテニスコートや川も流れる、まるで自然の中の遊園地のような環境だったといいます。

しかし、9歳のときに父・阪東妻三郎さんは脳内出血を起こして51歳の若さで急逝。田村正和さんにとっても大きな転機となる出来事でした。

その翌年、10歳のとき東京都世田谷区の成城へと引っ越し、中学・高校時代はバスケットボール部に所属し、関東大会に出場するほどの実力を持っていたといいます。静かな佇まいとは対照的に、運動神経にも恵まれていた田村正和さんは、青春時代をスポーツに情熱を注ぎながら過ごしていたようです。

  • 小学校:祖師谷小学校
  • 中学:成城学園中学校
  • 高校: 成城学園高校
  • 大学: 成城大学(経済学部)

田村正和さんがまだ幼かった頃「なんとなく父親のしている仕事をしたいと」と思っていたそうです。具体的に俳優という職業を意識していたわけではなかったものの、その想いを知った父・阪東妻三郎さんはとても喜んだといいます。後年、田村正和さんは「僕にあとを継がせたかったんでしょうね」と語っています。

その後、田村正和さんは俳優として本格的な道を歩み始めます。以降、着実にキャリアを重ね、さまざまな作品で存在感を発揮しながら、数々の賞を受賞する実力派俳優としての地位を築いていきました。

  • 第1回ザテレビジョンドラマアカデミー賞・主演男優賞、ベストドレッサー賞(1994年)
  • 第8回ザテレビジョンドラマアカデミー賞・主演男優賞(1996年)
  • 第31回ザテレビジョンドラマアカデミー賞・主演男優賞(2001年)
  • 第10回みうらじゅん賞(2007年)
  • 第49回モンテカルロ・テレビ祭・最優秀男優賞(2009年)

ドラマ史に残る名作に多数出演してきた田村正和さん。その中でも、刑事ドラマ『古畑任三郎』は圧倒的なヒットを記録し、10年以上にわたって放送された代表作として今なお多くの人々に愛されています。

これまでに受賞してきた数々の賞は、まさに“名優”という称号にふさわしい歩みを物語っています。田村正和さんの“静かにして深い演技”と洗練された佇まいは、観る者の心に深く刻まれ、華やかな賞以上に記憶に残る存在感を放っていました。

その静かな佇まいの中に、にじみ出る人間味こそが田村正和さんならではの最大の魅力だったのではないでしょうか。

ギモンくん

『古畑任三郎』が流行ってた2007年ごろ、「田村正和伝説」って噂が話題になったみたいだけど、どんな伝説なのかな?

カイケツさん

田村正和さんは「NGは一切出さない」、「セリフは相手役の分まで覚えている」など役に対してプロ中のプロだったらしいよ!それだけじゃなくて、「他人の前では食事する姿を一切見せない」とか、「最近やっとセロリとキャベツの違いを覚えた」とか…ちょっとかわいいエピソードまで。「実はテレビっ子でモノマネが得意」って話もあって。完璧すぎるのに、ちょっと抜けててチャーミングな人柄だから長年みんなに愛されていたんだね!

【画像】田村正和の妻はどんな人?死因は何だった?

田村正和の妻はどんな人?

引用元:女性自身

田村正和さんは、あまりプライベートを語らない俳優として知られていましたが、1970年に一般女性の矢島和枝さんと結婚しています。

矢島和枝さんは銀座の高級紳士服店の社長令嬢として育ち、東洋英和女学院短期大学を卒業後、カナダの大学に留学した経験を持つ才女です。二人の出会いは友人宅で開かれたパーティー。そこから恋に落ち、2年の交際を経て当時27歳だった田村正和さんと結婚しました。矢島和枝さんは田村正和さんより2歳年上になるそうです。

結婚式はカトリック田園調布教会で、親族11人のほか証人として映画監督の木下惠介さんだけが立ち会うという静かな式で、私生活を多く語らなかった田村正和さんらしい、控えめで上品な“ジミ婚”だったといえるでしょう。

結婚後も、矢島和枝さんは常に一歩引いて、田村正和さんを陰ながら支え続けたといいます。二人の私生活については多く語られていませんが、ある芸能関係者はこう話しています。

「田村さんは、“女性は結婚したら家庭に入るべき”が持論の亭主関白タイプ。それは決して男尊女卑ではなく、“外での仕事は自分が全力で頑張るから、家のことは妻に任せる”という考え方で、奥さんには常に感謝していた。実際に田村さんは“ウチの奥さんは100点満点だ”と公言していました。和枝さんの誕生日には、年の数だけバラの花を贈っていたそうです」

引用元:NEWSポストセブン

「ウチの奥さんは100点満点だ」と語るほど、矢島和枝さんに深く感謝していたそうです。

長年にわたり芸能界の第一線で活躍し続けた田村正和さんにとって、矢島和枝さんは単なる「妻」ではなく、心から信頼を寄せる唯一無二の存在だったのではないのでしょうか。

どれほど多忙な日々を送っていても、自宅に戻れば矢島和枝さんがいて、穏やかな時間が流れていた。田村正和さんの芯の強さや揺るぎない佇まいの背景には、そんな矢島和枝さんの変わらぬ支えがあったと、多くの関係者が語っています。

田村正和の死因は何だった?

引用元:日刊ゲンダイDIGITAL

田村正和さんは、2021年4月3日に心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。77歳でした。公式に発表された死因は「心不全」ですが、その背景にはかねてから抱えていた心臓の持病があったとされています。

また、1997年に極秘で心臓の手術をしており、2010年以降は仕事をセーブ。年に1~2本の時代劇ドラマなどに出演するなど数を減らしています。2013年にはスポーツ報知のインタビューに「声がかすれて出ないんです。これ以上、滑舌が悪くなったらどうしようかと考えます」と自らの“引き際”について語っていたといいます。

また、当時芸能関係者が田村家の家系の持病をこう語っていました。

「もともと田村家は心臓が弱い家系で、ご本人も若い頃から心臓があまり丈夫ではなかったそうです。」

引用元:NEWSポストセブン

こうした健康上の理由から、田村正和さんは徐々に第一線から退き、表舞台に姿を見せる機会は減っていきましたが、その気品とプロ意識は最後まで変わることはありませんでした。

田村正和さんの晩年は、目立ったメディア出演もなく、静かな日々を過ごしていたといわれています。体調を最優先にしながらも、役者としての信念は決して手放さなかったその姿勢に、関係者やファンからは「最後まで田村正和さんらしかった」との声が多く寄せられました。

別れは突然ではありましたが、その生き方は今なお色あせることなく、人々の記憶に深く残り続けています。

田村正和のプロフィール・SNS

引用元:ニッポン放送 NEWS ONLINE

プロフィール

  • 名前:田村正和(たむら まさかず)
  • 生年月日:1943年8月1日
  • 没年月日:2021年4月3日(77歳没)
  • 出身地:京都府京都市
  • 趣味:F1観戦・散歩・音楽鑑賞・読書
  • 特技:犬なつかれる・ゴルフ
  • 所属事務所:新和事務所 
ギモンくん

田村正和さんはSNSはやっているのかな?

カイケツさん

調べてみたけど、田村正和さん自身のSNSアカウントは見つからなかったよ。時代的にもあまりSNSを活用していた世代ではなかったのかもしれないね。でも、出演作品やインタビューの記録は今でもネットにたくさん残ってるよ!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次