【画像】朝丘雪路の家系図がすごい!旦那との馴れ初めは?息子は医師?

2018年4月、82歳でこの世を去った朝丘雪路さんは、女優・歌手・日本舞踊家という三つの顔を持つ才女でした。上品で柔らかな話し方と、芯のある華やかさはまさに唯一無二。

日本画家・伊東深水さんと、料亭「勝田」の女将・勝田麻起子さんを両親に持ち、生粋のお嬢様として育ちました。その気品あふれる個性は、バラエティ番組でも大きな人気を集めました。

今回は、そんな朝丘雪路さんの家系図に注目し、その華麗なルーツを深掘りしていきます。ぜひ最後までご覧ください!

目次

【画像】朝丘雪路の家系図がすごい!

筆者作成

朝丘雪路さんは、その華やかな芸能活動の背景に、まさに“お嬢様育ち”を絵に描いたような幼少期を過ごしていたと伝えられています。

1935年7月23日、現在の東京都中央区・築地で誕生。父は日本画家の伊東深水、母は老舗料亭「勝田」の女将・勝田麻起子という芸術と教養に囲まれた家庭で育ちました。

また、両親は籍を入れていませんでしたが、朝丘雪路さんは伊東深水から溺愛されて育ち、通学には人力車と養育係が付き添ったという、まさに“お嬢様”らしい逸話も語り継がれています。

さらに、3歳から日本舞踊を学び始め、その後は女優・歌手・タレント・舞踊家として唯一無二の芸能人生を歩み続けてます。その背景には、家族の影響と朝丘雪路さんならではの美学、そして時代を超えて愛された魅力がありました。

今回は、そんな朝丘雪路さんの家族関係をじっくり紐解いていきます。

朝丘雪路の<家族構成・家系図>

父:伊東 深水

引用元:森下文化センター

日本画家・伊東深水さんは1898年2月4日生まれ、1972年5月8日に74歳でご逝去されました。朝丘雪路さんのにあたります。

伊東深水さんは、戦前から戦後にかけて活躍した日本画家で、特に「美人画」の第一人者として知られています。彼の描く女性像は、日本画ならではの繊細でしなやかな描写で表現され、多くの人々を魅了しました。

また、幼少期に鏑木 清方(かぶらき きよかた)に師事し、15歳で巽画会に入選するなど、早くからその才能を発揮しました。その後も文展や帝展といった権威ある展覧会に次々と入選し、若くしてその実力が広く認められていきます。

しかし、当時の人気が高すぎたことから、依頼のほとんどが「美人画」に偏り、他の画題を描く機会が少ないことに悩んだ時期もあったといいます。それでもその人気は衰えることなく、戦後には伊東深水さんの作品は複製版画として数多く頒布されるようになり、一般の人々の間にも広く親しまれていきました。

さらに、伊東深水さんのもとには、徳永春穂、志村立美、白鳥映雪、岩田専太郎、立石春美など、多くの弟子たちが門下に名を連ねました。伊東深水さんは『歌川派』の系譜に連なる「美人画」の伝統を継承しつつ、『玄冶店派』としての精神や美の感性を弟子たちに受け継ぎました。

そして、伊東深水さんが師である鏑木清方(かぶらき きよかた)と同じ年に亡くなったことも、まるで運命の巡り合わせのように語り継がれています。

仕事には非常に厳格だった伊東深水さんですが、「女の子を叱ってはいけない」という信念を持っており、娘の朝丘さんはたいそう大切に育てられたといいます。芸術への厳しさと家族への優しさは、今も人々の心に残り続けています。

母:勝田 麻起子

引用元:婦人画報

勝田麻起子さんは1898年、京都・祇園に生まれ、1966年68歳の若さでご逝去されました。本名はカツといい、朝丘雪路さんのにあたります。

生後まもなく宮大工の棟梁夫妻の養女となり、14歳頃まで大阪で育った勝田麻起子さんは、義母の死をきっかけに上京。その後、東京・新橋の芸者として華やかな「花柳界」に身を置くことになります。美貌と品格で際立った存在となり、新橋の“七人衆”の一人に数えられ、「銀座小町」と称されるほどでした。

そんな勝田麻起子さんに惹かれたのが、日本画家の伊東深水さんでした。伊東深水さんは彼女の名前に、自身が好んでいた「麻」の字を取り入れて「勝田麻起子」と改名させ、芸者の道から退かせたといいます。

また、娘である朝丘雪路さんは、「母は幼い私の憧れの存在でした」と語っています。化粧をしなくても艶やかな肌、美しい着物姿、そしてつつましくも芯のある佇まいは、朝丘雪路さんにとって理想の女性そのものだったようです。

はっきりと物を言う性格だった朝丘雪路さんとは対照的に、勝田麻起子さんはいつも柔らかな口調で「そんなにずけずけ言ったら嫌われるわよ、やーだもう、雪江ちゃん」「やーねー、もう」が口癖だったといいます。

勝田麻起子さんは伊東深水さんを「先生」と呼び、生涯を寄り添い続けました。4人の子どもを育てる傍ら、その凛とした美しさと佇まいは、伊東深水さんの「美人画」のモデルとして数多く描かれています。

68歳という若さでこの世を去りましたが、化粧いらずの素肌の美しさ、気品あふれる着物姿、そして控えめながらも存在感を放つその姿は、今もなお語り継がれています。

義兄:長門 裕之

引用元:NHK アーカイブス

俳優・長門裕之さんは1934年1月10日生まれ、2011年5月21日に77歳でご逝去されました。朝丘雪路さんの義兄にあたります。

長門裕之さんは、昭和30年代前半の“映画が娯楽の王様”だった黄金期に一世を風靡した名優であり、長く人々に愛された俳優のひとりです。1934年に京都府で生まれ、父は歌舞伎俳優の澤村國太郎、母は女優のマキノ智子、そして弟は俳優の津川雅彦という、まさに芸能一家の中で育ちました。

さらに祖父は「日本映画の父」と称されるマキノ省三、叔父は映画監督・マキノ雅弘、叔母は名女優の沢村貞子という、まさに“映画の血”を受け継いだ俳優でした。

戦後、映画製作を再開した日活に入社した長門さんは、1956年公開の『太陽の季節』で主演を務め、一躍スターの仲間入りを果たします。同じ頃、弟の津川雅彦さんも『狂った果実』で俳優デビューを果たし、兄弟揃って映画界の新星として注目を浴びました。

義妹にあたる女優の朝丘雪路さんとは、1982年のTBSドラマ『過去のない女たち』や1983年『スチュワーデス物語』などで共演。息の合った演技で視聴者の心に深く残る存在となりました。プライベートでも義理の兄と妹として親しい関係にあり、バラエティ番組での共演ではユーモアと人柄がにじみ出る場面も多く、ファンの心を掴みました。

その後、朝丘雪路さんをはじめとする家族との共演を重ねた長門裕之さんは、NHK大河ドラマ『天と地と』をはじめ、『徳川家康』『八代将軍 吉宗』『篤姫』など数々の話題作に出演し、圧倒的な存在感を放ちました。

晩年には、NHK土曜時代劇『隠密八百八町』が遺作となりましたが、卓越した演技力と温かな人柄は、今もなお多くの人々の心に深く刻まれています。

義姉:南田 洋子

引用元:NHK アーカイブス

女優・南田洋子さんは1933年3月1日生まれ、2009年10月21日に76歳でご逝去されました。朝丘雪路さんの義姉にあたります。

南田洋子さんは、当時、東京市芝区三田に米穀商の娘として生まれました。母・北田とみ子さんは日本舞踊の師匠を務めており、芸事が身近にある環境の中で幼少期を過ごしたといいます。

戦後は茨城県土浦市に移り、1949年に土浦第一高等女学校(現:つくば国際大学高等学校)を卒業。わずか16歳で単身上京すると、名女優・水谷八重子に弟子入りし、早くから芸能の道を志します。1951年には映画会社が行う新人発掘のオーディション『大映5期ニューフェイス』に合格し、翌年には『美女と盗賊』で映画デビューを果たしました。

その後、日活に移籍し、1956年には映画『太陽の季節』で後に夫となる長門裕之さんと共演。この作品の大ヒットをきっかけに、南田洋子さんは名実ともに看板女優の座を確立しました。

私生活では、女優の朝丘雪路さんと義姉妹の関係にありました。朝丘雪路さんが南田洋子さんの着物や洋服を譲り受け、「サイズがぴったりだった」と語っており、親しい関係であったことが知られています。

晩年には認知症を患いながらも、夫・長門裕之さんの献身的な介護に支えられ、夫婦の絆をいっそう深めたといわれています。南田洋子さんは、銀幕の華やかさと家庭的な温もりの両方をあわせ持つ、稀有な存在として、今もなお人々の記憶に残り続けています。

子:真由子

引用元:WEB ザテレビジョン

女優・ジャズシンガー、真由子さんは1974年3月18日生まれ、2025年6月現在51歳です。本名は加藤 真由子(かとう まゆこ)さんで、朝丘雪路さんのにあたります。

真由子さんは、名優・津川雅彦さんと女優・朝丘雪路さんの娘として生まれ、華やかな芸能一家の中で育ちました。1974年、生後わずか5か月のときに自宅で誘拐されるという衝撃的な事件に見舞われましたが、41時間後に無事保護されました。この出来事は「津川雅彦長女誘拐事件」として報道され、当時大きな注目を集めました。

2018年、真由子さんは相次いで最愛の両親を亡くすという深い悲しみに見舞われました。4月に母・朝丘雪路さんが、そしてそのわずか4か月後の8月には父・津川雅彦さんがこの世を去りました。

そんな中、真由子さんは6月に俳優・友山裕之助さんと結婚。夫となる友山裕之助さんは、津川雅彦さんに何度も足を運び、真摯に頭を下げて結婚の許しを願い出ました。

4度目の際、津川雅彦さんは涙を流しながら、「真由子をよろしく頼む」と言葉を贈ったといいます。このやりとりは、家族の深い絆と温かな愛情を象徴する忘れがたい光景として、今もなお語り継がれています。

また、母・朝丘雪路さんが亡くなった後、自宅からは真由子さんが幼い頃に書いた手紙やテストの答案用紙などが詰めた箱が見つかりました。それを目にした真由子さんは「母親なんだなって、初めて母親を感じた。そんなのくしゃくしゃポイッて、捨てるような人だと思っていたから、びっくりしました」と涙ながらに語っています。

両親の死をきっかけに、2019年には『東京エキゾチカ with 真由子』で歌手活動をスタート。朝丘雪路さんが愛したジャズや昭和歌謡、津川雅彦さんが大切にしていた“良い音楽を後世に残す”という精神を受け継ぎ、歌を通じて両親の“生きた証”を未来へと届け続けています。

真由子さんの歌声は、まさに家族の記憶と情熱を紡ぐかけがえのない架け橋となっているのではないのでしょうか。

朝丘雪路の学歴・経歴

上下関係の厳しかった宝塚時代の朝丘雪路さんは、当時からおっとりとした性格とどこか浮世離れした言動から、周囲の反感を買うようになっていったといいます。人気が高まるにつれて嫌がらせもエスカレートし、化粧品を隠されたり、衣装に不備が見つかることも珍しくありませんでした。

さらに、なかでも衝撃的だったのが、舞台用の靴に剣山が仕込まれていたという出来事も。何も知らずに履いてしまい、激痛のあまり気を失ったこともあったそうです。

  • 小学:泰明小学校
  • 中学:山脇学園中学校
  • 専門学校: 宝塚音楽学校
  • 劇団: 宝塚歌劇団

朝丘雪路さんは、結婚するまで自分でお金を払って買い物をしたことがなく、結婚後も支払いはすべて1万円札だったといいます。

そのため、お釣りの千円札や小銭が引き出しにどんどん溜まり、ある日、薬を探していた夫・津川雅彦さんが小銭の山を発見して驚いたというエピソードが残っています。千円札や硬貨を「お金」と認識していなかったほど金銭感覚が一般とずれていたため、付き人が常に注意を払っていたそうです。

また、その後の経歴は以下の通りです。

  • 文化庁芸術祭賞・優秀賞受賞(1981年)
  • 芸術選奨文部科学大臣賞受賞(2003年)
  • 旭日小綬章受章(2001年)
  • 『宝塚歌劇の殿堂』殿堂入り(2014年)

お嬢さま育ちの朝丘雪路さんですが、芸能界では数々の賞を受賞し、その演技力によって確かな実力も高く評価されています。

ギモンくん

お嬢さま育ちの朝丘雪路さんって、当時、赤ちゃんだった娘さんのお世話とかちゃんとできてたのかな?

カイケツさん

オムツ替えとかは全部家政婦さんに任せてたみたいだよ。家事もずっと、事務所のスタッフや家政婦さんがやってくれていたらしいよ。津川雅彦さんが「我が家には主婦がいないんだねぇ」って呟いたら、朝丘雪路さんは、平然と「私も家事ができる奥さん欲しいわ」って返したエピソードもあるんだって!

【画像】朝丘雪路と旦那の馴れ初めは?息子は医師?

朝丘雪路と旦那の馴れ初めは?

引用元:日刊ゲンダイDIGITAL

俳優・津川雅彦さんは1940年1月2日生まれ、2018年8月4日に78歳でご逝去されました。朝丘雪路さんのにあたります。

津川雅彦さんは、昭和から平成にかけて日本映画界を支え続けた名優であり、鋭い感性と深みのある演技で観る者を魅了してきました。1940年、京都府京都市に生まれ、父・澤村國太郎、母・マキノ智子、兄・長門裕之と、華麗なる芸能一家として育ちました。

幼い頃から両親の期待を背負い、1945年には映画『狐の呉れた赤ん坊』で子役として初出演。その後、1956年、16歳の時に一本だけのつもりで出演した日活映画『狂った果実』が大ヒットしました。

一躍人気スターダムにのし上がり、本格的に俳優としての道を歩み始めます。以後、映画やテレビなどで活躍し、映画『HIGH&LOW THE MOVIE』、ドラマ『アガサクリスティー そして誰もいなくなった』『やすらぎの郷』など数々の名作品を残しています。

私生活では1973年、女優・朝丘雪路さんと結婚し、翌年1974年3月には娘の真由子さんが誕生。“理想の夫婦像”としても親しまれました。

また、人気絶頂の中、1958年には松竹に移籍しますが、ヒット作に恵まれず一時は人気が低迷します。しかし、悪役や個性的な役柄に挑戦する中で演技の幅を広げ、伊丹十三監督作品の常連として再評価され、多くの映画賞を受賞する実力派俳優となりました。

1980年代以降は映画監督「マキノ雅彦」としても活躍し、『寝ずの番』『次郎長三国志』『旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ』など話題作を手がけました。78歳でその生涯を閉じるまで、津川雅彦さんは常に挑戦を恐れず、自身の表現を追求し続けた俳優でした。津川雅彦さんの存在は、今も多くの人の記憶に生き続けているのではないのでしょうか。

朝丘雪路の息子は医師?

朝丘雪路さんに「息子が医師」という噂が一部で語られることがありますが、その真偽を裏付ける確かな情報は確認されていません。1967年、朝丘雪路さんは父の勧めで青森県八戸市の内科医師と結婚し、一男をもうけました。

これは朝丘雪路さんにとって初めての結婚であり、華やかな芸能生活とは対照的に、一般家庭での穏やかな日常を送ることとなった時期でもありました。

しかし、結婚生活は長く続かず、翌1968年に離婚しました(正式に離婚が成立したのは1972年)。親権は夫側に渡り、一人息子も夫のもとで育てられることになります。

つまり、「朝丘雪路さんに医師の息子がいる」という表現はやや誤解を招きかねず「医師である元夫との間に生まれた息子がいる」というのがより事実に即した表現ではないでしょうか。

その後、朝丘雪路さんは1973年に俳優の津川雅彦さんと再婚し、芸能一家としても知られる新たな家庭を築きました。メディアで取り上げられることが多い娘・真由子さんとは異なり、最初の結婚で生まれた息子については公の場で語られることはほとんどなく、一般社会の中で静かに暮らしているとみられます。

朝丘雪路のプロフィール・SNS

引用元:WEB ザテレビジョン

プロフィール

  • 名前:朝丘 雪路(あさおか ゆきじ)
  • 本名: 加藤 雪江(かとう ゆきえ)
  • 生年月日:1935年7月23日
  • 没年月日:2018年4月27日(82歳没)
  • 出身地:東京都中央区
  • 血液型:B型
  • 趣味:映画観賞・絵画鑑賞・三味線
  • 特技:編み物・日舞(日舞深水流初代家元)
  • 所属事務所:株式会社グランパパプロダクション

SNS

ギモンくん

朝丘雪路さんの友達ってどんな有名人がいたの?

カイケツさん

朝丘雪路さんは著名人の友人は数おおくいるけど、特に、デヴィ夫人の夫であるインドネシアのスカルノ大統領が朝丘雪路さんのお父さん、伊東深水さんに肖像画を頼んだのがきっかけで、デヴィ夫人とは50年以上も仲良しだったんだって!

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